がん患者への配慮とデザイン|啓発ポスターから考える表現の届け方
- SATSUKI DESIGN OFFICE

- 11 分前
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誰に、どこで何を届けるのか。がんをめぐる表現について考えること
先日、厚生労働省と映画『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』のタイアップポスターについて、患者や家族への配慮を求める声が寄せられました。このタイアップは、AYA世代のがん患者や家族が利用できる制度を広く知ってもらうことを目的としたもので、ポスターは、がん診療連携拠点病院などに掲示される予定だったようです。
しかし、現在治療を受けている患者が日常的に通う場所で、「ママがもうこの世界にいなくても」という言葉を目にすることに、不安やつらさを感じるという声が上がりました。厚生労働省はその後、患者や家族への配慮に欠ける点があったとして、タイアップの中止、送付済みポスターの回収、掲示の中止を発表されました。
ここで書きたいのは、映画そのものや、実在の方の人生、作品のタイトルを批判することではありません。一つの作品として映画館などでタイトルを見ることと、治療のために通っている病院で、支援制度の案内としてその言葉を見ることでは、受け止め方が変わるということを伝えたいのです。がん患者への配慮とデザインとはどうあれば良いのでしょうか。
当事者の日常は、病気だけではない
今回、私が特に気になったのは、治療を受けている当事者の日常が、十分に想像されていないように感じたことです。病院で治療を受けながら仕事や家のことをし、家族や周囲の人と過ごし、先の予定を立てながら暮らしています。病院へ行く日は、検査結果や治療への不安を抱えていることもあります。それでも治療を受け、また自分の日常へ戻っていきます。少なくとも私は、病院へ行くたびに死を意識していたわけではありませんでした。生きるために治療を受け、その後の生活へ戻るために通っていました。だから、病院で見る掲示物やパンフレットも、そうした日常の延長にあります。
私は、娘を一人で育てています。シングルマザーです。だから、告知されたときに、もし、私が死んだらこの子はどうなるのだろう?と、自分の死より我が子の未来を心配しました。それは、治療中、私と娘の一番の悩みでした。だから、ママがいなくなったら・・言葉にはできないし、想像もしたくない。そして、この「ママがいなくても」は、今もトラウマのように、我が家では禁句になっています。だから、よくそんな言葉を、ハッシュタグにして周知に使ったもんだなぁ・・・と唖然としました。
AYA世代(15~39歳)のがん患者に知ってほしい支援制度やサービスについてまとめたパンフレットの存在を知ってほしいと思って、「ママがもうこの世界にいなくても」というタイトルをポスターに起用する・・・。どういう、どういう神経(以下自粛します)
表現を考えるときには、その言葉を「誰が見るか」だけでなく、その人がどのような気持ちで、どのような一日を過ごしているときに目にするのかまで、想像する必要があると私は思うのです。
がん患者への配慮とデザイン
私が乳がんの治療を受けていた年にも、乳がん検診の啓発ポスターをめぐって、似た問題がありました。「まさか、私が と毎年9万人が言う」というコピーと、抽選のガラポンを組み合わせた表現です。これに対し、病気をくじの「あたり」のように表現されたと、傷ついた患者の声が寄せられました。日本対がん協会も、入選作品に対して問題を指摘する意見が寄せられたことを受け、選考の責任を認め、患者や家族に謝罪されました。
当時、治療中真っ只中だった私も、この表現にはさすがに傷つきました。
一方で、「もし自分が当事者でなければ、悪気なく、こうした表現を選んでいたかもしれない」とも思いました。あれを作ったデザイナーもきっと、私たちをを傷つけようとして、つくったものではなかったはずです。多くの人に病気を知ってもらいたい、検診を受けてもらいたいという目的が、ああなってしまったのだと思います。
がん経験者でも、ほかの人を代弁はできない
私自身はがん経験者でデザイナーです。しかし、がん経験者であっても、ほかのがん経験者の気持ちを代弁できるわけではありません。同じ病気であっても、病状、治療の段階、年齢、家族構成、告知からの時間などによって、感じ方は異なります。同じ表現に傷つく人もいれば、別の受け止め方をする人もいると思います。
だから、当事者ではあるものの、すべての当事者の気持ちが分かるということではありません。ここに書いていることも、がん患者全体を代表する意見ではなく、一人のがん経験者であり、表現をつくる側でもある私自身が感じ、考えたことです。
「私は経験者だから分かっている」と思い込まないこと。それも、表現をつくる上で大切にしなければならないことだと感じています。
デザインは、表現だけでは終わらない
この二つの問題から感じるのは、言葉やビジュアルだけでなく、それが使われる場所や、目にする人の状況まで含めて考える必要があるということです。誰に向けたものなのか。実際には、誰の目に入る可能性があるのか。どこで目にするのか。その人は、どのような状況で受け取るのか。同じ言葉でも、見る場所やタイミングによって、意味や受け止め方は変わります。
なお、制作や決定の過程を全く知りませんので、「当事者の意見を聞いていなかった」と断定することもできません。誰かを批判したいわけではなく、自分たちの仕事ではどうするのかを考えたい。
さつきデザイン事務所として考えること
さつきデザイン事務所も、医療、ケア、社会課題に関わる制作をしています。今回のことは、決して他人事ではありません。わたしは次のようなことを意識してクリエイティブに取り組んでいます。
本来の対象者だけでなく、その表現を目にする可能性のある人まで考える
表現が使われる場所と、見る人が置かれている状況を確認する
企画の早い段階から、異なる立場の人の声を聞く
一人の当事者の意見を、すべての当事者の意見だと思わない
公開後に思いがけない受け止め方をされた場合は、まずその声を聞く
必要であれば、立ち止まり、修正や取り下げを検討する
当事者に一度確認してもらえば、それで「正解」になるわけではありません。当事者の声を聞くことは、お墨付きをもらうことではなく、自分たちだけでは見えていなかった視点に気づくための対話だと考えています。
アトリプシーで守りたいこと
アトリプシーでは、病気や治療を経験した人の表現を、スカーフなどのデザインへと展開しています。
参加者が自分の意思で表現しているから大丈夫。私自身もがん経験者だから分かっている。そう決めつけないことが大切だと思ってやっています。
また、一度同意してもらったから、その後もずっと同じ気持ちでいるとは限りません。作品が商品になり、展示され、写真や文章とともに広く伝わることで、初めて感じる違和感もあると思います。だからこそ、アトリプシーでは、参加者が違和感を口にしたときに、「最初に説明したから」「良い意図でやっているから」と、そのまま進めることはありません。
まず声を聞く。必要であれば立ち止まる。そして、できる限り修正する。
そのためにも、撮影、展示、商品化、広報など、それぞれの段階で本人の意思を確認し、途中で考えを変えてもよいことを、きちんと伝えています。違和感を言える関係をつくること。そして、言われたときに本当に止まれる仕組みを持つこと。それを、アトリプシーでは守っていきたいと思ってやっています。
正解を決めるのではなく、対話を続ける
がん患者への配慮とデザインを考えたとしても、それが、すべての人を傷つけない表現でもなく、がん患者以外の人を傷つける表現かもしれません。だから、誰もが傷つかない表現をつくることは、簡単ではありません。同じ表現でも、受け止め方は人によって異なります。だから、何も表現しない、無難なものだけをつくる、ということでもないと思います。
表現には、人の気持ちや行動に働きかける力があります。だからこそ、その表現が誰に、どこで、どのように届くのかを考える必要があります。自分たちが良いと思っているときほど、一度立ち止まる。そして、異なる立場の人と話しながら考える。その姿勢を、これからも大切にしていきます。



